(4)
『僕たちは「トリスタン」に寄ってくけど、望月さんは? どうする?』
『……私は……あの……』
『家で、まりかちゃんとりゅうとくんが待ってるんだっけ? ほ〜んと、相変わらずつれないなぁ〜〜』
親しげな会話が扉の向こうから、だんだんその声量を増して響いてきて。
話の内容がわかるほどになったと思ったら、麗華先生の腕を引いて連れて行った例の男を先頭にどやどやと数人がそこから姿を現した。
しかも。
そいつは斜め後ろの先生を気遣うように、片手を気安く先生の背中に添えていて。
いかにも「仲が良さそう」というか……何だかまるで、恋人同士のように見えなくもない雰囲気。
(まさか……そんなこと、ないよね?)
弱気になりそうだったのも一瞬、く、と奥歯を噛み締めて気合を入れて。
けれど、そうとは悟られないように、
「先生、こんばんは」
あえて控えめに、でも、できるだけ爽やかに見えるような笑顔を作りつつ声をかけた。
「あ……」
貴史くん……どう…し…て? 麗華先生が大きな瞳を見開いて、小首をかしげる。無防備に見せるこういう仕草が本当に愛らしい。先生は、僕が従業員通路なんかで待ち伏せしていたことに、純粋に驚いている様子。纏めていた髪を下ろし、ジーンズと黒いセーターにキャメル色のコートを羽織った、いつも通りの格好だ。完全にノーメークの普段と違って、ごくナチュラルな化粧はしているけれど、それでもパーティーの招待客たちから比べるとずいぶんと地味で幼い感じだ。たぶん今なら、間違いなく僕の方が年上に見えるだろう。
「望月さん、誰?」
あ、もしかして、例の家庭教師してるって言う高校生?……そういう男は、先生の背中に添えた手をはずさないまま、ちらり、と傍若無人な視線を僕に投げてきた。
(ふ〜ん。こいつ、もしかしなくても……)
からかってくる口調と、鋭い視線から、その男の敵意を感じた。
「へ〜え、お坊ちゃま自ら、わざわざセンセイをお迎えに?」
「ちょ……と、清水くん……っ」
困惑した表情の麗華先生が、清水、と呼んだその男の腕を軽く掴んで自分の方に引くようにしてたしなめた。
(そんな奴に触るな!)
先ほどの光景がフラッシュバックして、思わず叫びそうになったのをぐっと奥歯を噛み締めて自制した。落ち着け……こんな程度のことで取り乱したりするのは僕のキャラじゃない。目つきが自然と鋭くなっていくのを自覚したけれど、それくらいは当然だよね?と思いつつ、無言で通した。
ところが、僕の変化に気づいていないらしい彼女は、今にも泣きそうに潤んだ大きなこげ茶色の瞳で見上げたまま、
「……さっきのパーティーに、彼も出席して…て……」
まるでその男に許しを請うように、小声で言う。それに力を得たように、その男――清水――は、僕への視線に明らかな侮蔑の色を滲ませ、わざとらしい呆れ顔でこちらの予想通りの質問をしてきた。
「ふぅ〜ん、そう。でも、今日のパーティーは企業主催でしょ……キミ、まだ高校生だよね?」
「ええ。そうですが。先ほどの会は父の主催の恒例行事で、毎年僕も借り出されるんですよ。」
そういってにっこりと営業スマイルをひとつ。――つまり、間接的には、僕は、あなたの依頼主だってことですよ? そういう視線で相手を見返せば。こんな商売をしているだけあって察しはいいらしいこの男は、憮然としつつも口を噤んでしまった。
ただ、そういった言外の意味を滲ませた会話というものに慣れていない麗華先生だけは、二人の間のぴりぴりした空気の原因がわからない様で、困りきった顔で途方にくれている。あーもう、こんなギスギスした意味のない会話、これ以上続けたら時間の無駄だ。
それよりも、一刻も早く……二人きりになりたい。
「先生」
「…はい?」
「折角の機会に、ぜひ父が先生にご挨拶をしておきたいと申しておりますので」
一緒に来ていただけますか? そう言って、返事も待たずに踵を返して僕は歩きだした。少し間があったが、慌てたようにぱたぱたと駆け寄ってくる気配がする。すぐに追いついてきた先生を、ちら、と見遣り、視線だけで「僕に付いて来て」と合図すれば、無言のままこくり、と肯いて従順について来てくれた。
(ふふ。いい気味)
鳶に油揚げを攫われるように、いきなり現れた僕に、愛しい「望月さん」を攫われたあいつの心情を思うと――先ほど、手首を握って彼女を連れ出されたときの仕返しができたような気がして――ちょっと溜飲が下がった。
ロビーの端にあるエレベーターに先生も乗り込んだことを確認したところで、迷わず目指す階のボタンを押した。幸い、他の客は乗ってこなかった。
二人きりで他に人気がいないのをいいことに、所在無げに立ち尽くす麗華先生の手を握ると、少しだけ困った顔で俯いた。それでも遠慮がちに握り返してきたその指先は、緊張のためかひどく冷たくて。発作的にその手を口元に運びそうになって、どきり、とした。
(まだだ。……まだ、先生はそういう親密な触れ合いに慣れていない)
あまり焦った行動を取って、不振がられては困る。そういう触れ合いは、もう少し……逃げ場をなくしてからだ。
「どうぞ」
カードキーでドアを開け、まずは麗華先生を部屋に促した。真っ暗な部屋ではいきなり警戒されかねないから、電気は事前に点けっ放しにしておいてある。それでも、しんとした室内に人の気配がなさそうなのを感じているのか、先生は少し怪訝な顔をしたまま廊下を抜け、部屋に一歩踏み出した。
「失礼します……」
律儀にも、軽くお辞儀をしながら小声で挨拶をする先生。
最初に僕が言った台詞を……父がこの部屋で待っている、と……信じきっているのだ。
(ごめん。)
思わずその背に謝りそうになった。僕を疑うことなど考えもしない――そんな純粋な貴女を、騙して……ごめんね? でも、僕ももう限界……だから。次の一歩を踏み出すことを許して?
「あの……お父様、は…?」
視界に父の姿がないのに気づいた先生は、それでも何処かにいるのだろうという期待を込めて僕に尋ねてくる。その表情は、父がここに居ないことを責めるものではなく、ただ純粋に驚いている、といった風情だ。本当にもう……ここまできても僕を疑わないでいられるなんて。
「ああ、父なら……ここには居ませんよ」
ショックを少しでも和らげるため、僕は。さらりと何でもない事のように真実を告げた。
「え?」
やっと騙されたことに気づいた彼女が、驚愕の顔で振り向こうとしたところを、僕は後ろからがっちりとその華奢な肩を腕に閉じ込めた。
(もう……逃がさない。)
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