The first encounter


(7)





――乾杯の後、宝石か何かのように恭しく銀のトレーに整然と並べられたオードブルに手を出そうとしてフォークも箸も置かれていないことに気づいた。

 『フォークは、どうやら忘れられちゃったみたいですね』
 『……どうせ全部手で摘めるものばかりだし、なくても別に問題ないですよね?』

 そう言ってごく自然に差し出された指先には、クラッカーにチーズをのせたカナッペが摘まれていて。どうぞ?と言われて思わずそれを口にしたのがいけなかったらしい。気づけば……お互いにつまみを一品ずつ食べさせるという信じられない事態に陥っていた。


「……んっ……っ……」

 軽く開いた唇の間に押し込まれたのは、ひと口大にスライスされたボイルドポテトの上に、クリームチーズとキャビアの乗ったオードブル。ポテトを咀嚼しようとして口を動かせば、唇の上で止まっていた彼の長くて繊細な指が歯列を割ってほんの少し入り込んできて。それをどうしたらよいのかわからず、漆黒の瞳を見上げれば。

「舐めて?」

 クリームチーズが指についちゃいました、そう無邪気に言われて……与えられた刺激とのギャップに頭と心が混乱する。――それでも仕方なく、その指先についた白いものをそっと舐めとった。

「今度は、先生の番ですよ。ええーと、僕は、その生春巻きがいいかな」

 ニコニコとして、いつも通りの彼に、今さら拒絶も出来ず、言われるままに生春巻きを摘んで持ち上げれば、

「あ、ソースもつけてお願いしますね」

 と微笑まれ。アルコールのせいばかりではなく赤くなった顔を自覚しつつも、彼の口元に、食べやすい大きさにカットされたそれを持っていった。子どものように大きく開けられた口に、そっと春巻きを押し込むと、

「ちゅっ」

 っと、ソースで汚れた指先を躊躇いなく吸われて。その瞬間、どくん、と体の中でどこかがが脈打った気がした。

(こんなこと……今まで……全然、知らなかった……)

 食べる、というごく普通の行為がこんなにも別の感覚を呼び起こすものだとは。咥内の感覚がおかしくなってしまったのか、やけにリアルに食べ物の触感を感じる。その度に、体の中で暴れまわる感覚に次第に呼吸は微妙に上がり、そのわけのわからない衝動を何とか堪えるため、私は……唇を噛み締め、ぐっとソファに爪を立てた。

 けれど、どんどん危うくなっていくこちらの状態など気づきもしない彼は、次々にトレーの上から見た目も味も一級品のオードブルを摘んでは、無邪気な顔でこちらに差し出してくる。

「はい。これおいしそうですよ」
「ん」
「どう?」
「…おいしい」
「良かった。じゃ、これは?」

 にこにこと嬉しそうに笑う顔が、本当に楽しそうだ。けれど、見つめてくる視線は熱くて……耐え切れなくなった私は、ほとんど無意識にシャンパンのグラスに手を伸ばした。けれど、程よい甘みと酸味をもった冷たい液体が、その効果を発揮してくれるのは喉元だけ。胃に到達したそれは、炎となって全身を駆け巡る。まずい……何だかいつもより酔いが回るペースが速い。

「次は、どれにします?」
「え…と」

 こちらが未知の感覚に戸惑っているというのに、不意にまた問いかけてきた彼はまったく普段どおりなのが……憎らしい。その余裕の態度を何とか崩したくて、トマト、と、一番上手く掴むのが難しそうな――スライスしたトマトの上にこんもりとカッテージチーズと刻んだオリーブのトッピングが施されたものを指定して、墓穴を掘った。

「んっ」

 噛み付いた瞬間に、じわりと染み出したトマトの汁が、つう、と口の端から零れ落ちそうになって。
 それを、いつの間にか近づいていた彼の口に吸い取られ。

(――もう限界。)

 そう思ったことだけは、覚えている。






「……んっ……っ……んっ……っ……ゃ……」

 貴史くんの舌がまるで別の生き物のように、咥内を自在に動き回って……私の思考と息を奪っていく。

 生まれて初めて受けた、今までとは比べ物にならないような激しく深い口づけ。
 受け止めるのだけでも精一杯だというのに。

 体全体を使って私をベッドに固定した彼の手は、執拗に胸の膨らみを弄んでいる。時折、服と下着ごと先端を強く摘まれる度に、体の中心に如何ともしがたい疼きが駆け巡って、堪らず身を捩ろうとするものの、上に覆いかぶさっている彼の体はびくともしてくれない。

 唯一、自由になる首を左右に振って何とか窮状を訴えようとしても…………それに気づいた彼に、逆にきつく顎を押さえられて、舌を絡め取られて。あまりに容赦の無い激しさに、ついていけない気持ちが雫となって目尻に溜まっていく……。いくら恋愛経験ゼロとは言っても。ホテルの部屋で男性と二人きりで過ごすことの意味くらいわかっていたつもりだし、その上で「今日は帰らない」という選択をしたのは紛れも無く自分だったのだけれど。

(お願い……もう、許して)

 必死に心でそう願っても。その願いが届きそうも無いことは薄々わかっていた。
 ベッドに押し倒された瞬間に見えた彼の、ぞっとするほど冷たい瞳には、普段私を見つめる時のような慈しみの欠片も探せなかったから。

 そう…………今の彼は、どこかおかしい。何かが、いつもと違う。
 だが一体なにが……?
 なぜ? どうしてこんな状況に陥ってしまった?


 朦朧とし始めた意識の中、その原因を探そうと少し前の記憶を辿った。


 着替えを終えて彼に促されるまま戻った部屋。柔らかい間接照明に浮かぶように可愛らしいクリスマスツリーの飾られたテーブルに惹きつけられた。高級そうな料理とさりげなくセンスの良い生花のアレンジメント。揺れるキャンドル……いかにも恋人同士のクリスマス然とした扱いがくすぐったくて。嬉しくて。お父様のことは、この時点で嘘だと確信したけれど。
 そんなことはもうどうでもよくなるほどには……彼の気遣いが嬉しかった。

「さ。乾杯、しましょう」

 グラスを片手に笑いかけてくる貴史くんは、パーティーに出席したスーツのままなのがいつもよりさらに大人びた雰囲気を醸し出していて………とても男らしくて…思わず視線を逸らしてしまうほど格好良かった。


 口当たりの良さについついシャンパンを一瓶、ひとりで空けてしまったせいだろうか?だんだん体がおかしな反応を始めて、頭もぼーっとなってきて。今夜は、ここに泊まっていただけませんか?という彼の言葉にも、なぜかすんなりと同意していた。
 そして自ら願い出て、生まれて初めての外泊許可を得るために家に電話をかけた。――ママがいないと嫌、という茉莉香を何とかなだめて……ほっとして受話器を置いたのがほんの少し前。

 その途端、きつく腕を引かれてベッドに押し倒されていた。……その時ちらりと垣間見えた、いつもと全然違う冷たい瞳にぎょっとしていたら……息もつけないような激しいキスに翻弄される羽目に陥ったのだった。

(どこかに…落ち度はあっただろうか?)

 そう頭の片隅で考えても答えらしいものは見つからない。とにかく、あまりの苦しさとその容赦なさに…もう、恐怖心しか湧いてこなくて。

 何とかこの苦しい事態から逃れようと、ただそれだけを考えた。








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