(8)
相当酔いが回ったのだろう、突然僕の肩に倒れ掛かってぎゅうと抱きついてきた先生の呼吸は荒い。
「今夜は、ここに泊まっていただけませんか?」
ほとんど意識が飛びかけているレベルだろうということを承知でそう尋ねれば、こくり、と首が縦に振られた。家に電話をかける、という先生に外線のかけ方を教え、ふらふらと頼りなげにヘッドボードに置かれた電話に向かうその後姿……そのしなやかな曲線を、見ていた。
すると、電話がつながったのだろう、どこか不安げな顔をした麗華先生の口から、いきなり早口のポルトガル語が零れ落ちた。
――僕には一言もわからない言葉を自在に操る先生は、まるで別人のようで。
改めて、僕たちの違いを突きつけられて気がして……ほんの少し寂しさを感じてしまった。先生はその容姿だけではなくやはり中身もしっかり日系ブラジル人なのだ。
『ままーーっ!!』
ぼんやりとテーブルで温かな光を放っているろうそくを見詰めていた僕が、突然受話器から零れてきた大きな声に、はっとして振り仰げば……少し困惑気味に眉根を寄せ、けれども今まで見たことも無いような優しげな顔をした麗華先生がいた。あのねあのね、と繰り返す幼い声。
「まぁり、ごめんね。いい子だから、ばぁばとおやすみしてね」
「りゅーととね、ふたりで、いいこでまってて」
「うん。くまちゃんは、ままがみつけるからね……うん、うん。わかった。おやすみ」
甘い声で電話口に語りかける先生は、初めて僕が目にする聖母のような優しさを称えた顔で。受話器にキスまでしそうっていうか……本当にキス、してるし。
(ママ、って……一体どういう、こと?)
そう呼ばれたことを否定するどころか、その態度は幼子を持つ母親そのもの……って…いや、さっき、自分でも「まま」と言っていたような……?
まさか、先生……って、未婚の、母?!
いやいや……大学生だからって、未婚とは限らない。学生結婚のカップルなんて意外とその辺に転がっていたりするもんだし。
あ。
もしかして。
母との契約だとかいって、住所も電話番号も、教えてくれなかったのは、夫や子供が居るから……とか? 僕のアプローチを積極的に受けるでもなく断るでもないのは……もし、僕からの申し出を拒絶して、家庭教師を辞めさせられたら困る、から?
今夜、承諾したのも。
ここまで用意周到にされているのを断ったりして、僕を怒らせたりしないように?
いやでも。あの時先生は……キスをしたのは初めだって言ってたし。ああ、でも…あれはファーストキス、と言う意味じゃなくて「自分からした」のが、初めてと言う意味だった、とか?
どれもこれも、馬鹿げた想像かも知れないと思いつつも、そう考えることでこれまでのすべての辻褄があったような気がして。
――いろんな負の感情に襲われた僕は。
先生が受話器を置いた瞬間、強引にその華奢な腕を掴んで引き倒し、驚く彼女をベッドに組み敷いた。苦しげに抵抗するのも完全に無視して。これまで一度も仕掛けたことのなかった、奥まで貪るようなキスを繰り返した。
「や……ぁぁ……た……………ふ…み……く………だめっ」
こちらが体を少し浮かせた瞬間に何とか逃げ出そうとしたのか。四つ這いになってベッドの上の方へ行こうとするのを……そのまま下着を抜き取って。腰を高く上げた格好で固定して。先ほど指先ですでに確認済みの、蜜に濡れた花弁に舌を伸ばした。
「いっ……ゃ………やめ……てっ……………おねが…い……っ」
弱弱しいけれど切羽詰ったような拒絶の、声。
余計に嗜虐心をくすぐられる……怯えを含んだ……艶っぽい声にぞくぞくする。
嫌って言う割には、ここはもう、こんな、ですよ? わざとそんな意地の悪いセリフを吐きつつ、一番敏感なところを舌で執拗に舐めあげ、歯で甘噛みし、強めに吸い上げ……さんざんに嬲れば、
「……っ……ぁっ!!」
シーツをきつく握り締めて体を震わせた麗華先生が、切なげな声を上げてベッドに崩折れた。
力の抜けた体から残りの衣服を手早く剥ぎ取り、こちらも全裸になって準備を施しつつも、僕の目は、彼女の体の何処かにあるかもしれない他人の痕跡を探していて。けれど……彼女の滑らかな肌のどこにも、そんな跡は見つからない。つぶさにその反応を観察しても、その控えめな、必死に快楽を耐えるような反応が、経験のなさからくる羞恥からなのか、その性格ゆえか、はたまた夫以外の男に身を任せている罪悪感からか……結局判断が付かず。
――完全に焦れていた僕は、仰向けに返したその華奢な体にのしかかり、性急にそのナカに進入した。
いや。
しよう、
と、
………した。
「くっ」
あまりの抵抗の強さに、思わず声が零れ。その瞬間、冷や水を浴びせられたように冷静になった僕の頭は……やっと正常な判断を下し始めた。眼下には、白くなるほど下唇を噛み締め、目尻に大粒の涙を溜めたまま強く目を瞑って……健気にも苦痛に耐えている先生の姿……。
(……なに、やってんだか。)
普段の自分にはありえない判断ミス。これまで恋愛経験は皆無だった、と、何度もそう確信するだけの言葉も態度も仕草ももらっていたのに。あーもーほんと、あり得ない。
「せんせい………… だいじょう、ぶ?」
荒い呼吸のせいか、しゃくりあげているせいか、小刻みに震えている肩がたまらなくて。腕の中に抱き込んだ。
「……ごめん、なさい」
あの……もしかして、すごく……痛い、ですよね?先生……? 呼びかけた僕に向けられた視線には、いつになく強い光が宿っていた。こんな強姦まがいのやり口じゃあ、嫌われても仕方ない。余りにも馬鹿馬鹿しい勘違いで、勝手に事情も訊かずに嫉妬に駆られて。大事な人に何てことをしてるんだろう……。平手打ちのひとつも、食らっても当然だと瞬間的に覚悟を決めた。
けれど、地獄の底まで落ち込んだ僕の耳に届いたのは。
「先生、っ……なん…か、じゃ……っ…な……い…っ」
……嗚咽交じりの、そんな一言だった。
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