――『本日は、予定より2時間ほど早めにお願いします』
木村家の専属運転手を務める牧野氏から、そういう電話をもらったのは、今朝早くのことだった。前に同じような電話をもらった時は……彼の母親から例の録音テープを聞かせられ調査書を渡された時だったから……すでに半年は経っている。
あの時もそうだったが、今回も急な時間変更の理由は告げられなかった。おかげで受話器を置いた後からずっと……漠然とした恐怖感に苛まれて……とうとう一日中、少量の水分以外は何も喉を通らなかった。
それなのに。それなのに。それなのに……
The last ...? Q
一体何なんだ!?これは……
あちこちに活けられた見事な生花のアレンジメントに、いつもより部屋の真ん中に近い位置に据えられたグランドピアノ。その脇に設えられている小振りのテーブルには、二人分のプレートとシャンパンのグラスが並べられ……私を出迎えてくれた貴史くんは、いかにも高級そうな黒いシャツに黒いスラックス姿。アクセサリーなど、今まで一度もつけたことがなかったのに、黒い革紐にシルバーのヘッドのついたチョーカーまでして……ひどく洗練した雰囲気で………今さらながら気圧される自分が、情けない。
どんな目に会うのかという恐怖が強かった分、拍子抜けした途端に込み上げて来たのは行き場の無い、沸々とした怒り。……ただ単に私を驚かせようと思っただけなのだということは、彼の楽しげな様子でわかるのだが。
「先生も、このドレスに着替えてくださいね?」
「…はぁ?…………どうして…わざわざそんな面倒なこと、」
返す声にどうしても棘が混じる。
「そんな怖い顔しないで〜。二人だけで、前祝いしましょう?」
「…前祝……?」
「そう。ミニコンサートですよ。約束、したでしょう?」
「どうせ明後日は合格発表があって最終日ですから、父や母も出てくるでしょうし、そうなるとせっかくの約束を守れるかどうかわかりませんから、今日じゃ、二日早いですけど……どうせ勉強する気になんかなれませんし、」
ね?いいでしょ?と、甘えるような口ぶりと共に小首を傾げるその仕草と、胸元の白い肌に黒い革紐が何ともいえなく艶かしくて。……どきどきと心臓が騒ぎ出したのを悟られたくない私は、
「だからって、なぜ着替えまで……?まったく……全然、訳がわからないから」
思わず冷たく返してしまって、そんな自分を心底嫌だと思う。まったくもって可愛さの欠片もない。もちろん、こういうサプライズが嫌なわけではないし、いろいろ気遣ってもらって悪い気はしない。
それにしても……つくづく人を着替えさせるのが好きなんだから……これまでにも何だかんだと言いくるめられて、別の衣装にさせられたことは1回や2回じゃない。どうせ私はいつもジーンズにTシャツとかトレーナーとかセーターとか…色気もそっけもない洋服しか持っていないけど。あ、リクルートスーツなら2着持ってるか。
「あ〜〜もう! そんな難しい顔しないでー。せっかくのサロンコンサートなんですから、お客様もドレスアップしていた方が雰囲気が出るってもんじゃないですかー」
ほら、ちょっといつもと気分を変えるためにも、着替えて来てくださると嬉しいんですけど、そう言いながら手渡された着替えは、ひどく薄手のシルクで出来たドレスのようだ。さらさらとした布地が……心地よい。着てみたらきっと、気持ちがいいだろうな、と思う。けれど、天邪鬼な口はまったく別の言葉を吐き出していた。
「まったく…今回も、何を企んでいるのやら……」
「……ん?どうしましたかー、先生?……何か、仰いました?」
にこにこと殊更邪気の無いような笑顔で聞き返されたが、……目が笑っていないような気がするのは考えすぎか。それにしても、無意識に口から零れていた呟きを聞きとがめられ……思わず頬に血が上った。
「どーしても嫌だと仰るのなら、別にそのままでもいいですけど。せっかく僕は気合入れて準備したのになぁ〜〜〜あーほんと、残念だなぁ〜〜〜、恋人なら、ちょっとくらい付き合ってくれてもいいのにぃ〜〜〜あ〜〜〜僕って愛されてないのかなぁー」
――わざとらしい。
そう思っても、やっぱりこんな風に甘えられたり我侭を言ってもらえるのも、あと少しだけだと思うと、彼の望むことは何でも叶えてあげたくなってしまう。どうせ、最後には……ひどい言葉で傷付けてしまうことにかわりはないのだけれど。それでも。少しでも……と望む私は、身勝手で、ひどい女、なのだろう……か。
「わかった。わかったからっ!」
じっと期待を込めた眼差して見つめられるのに抗えなくて。精一杯の譲歩……という表情を隠しもせず、渡されたドレスを無造作に掴むと、いつものように備え付けのバスルームに向かった。照れ隠しのために、めいっぱい不機嫌な顔を崩さないまま。
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