「さぁて、今回はどんな手で行こうかな」



 そう呟いて暗い笑みを浮かべるのは――木村貴史(きむらたかふみ)、現在、私立栢櫻(はくおう)高校2年生。
 栢櫻高校は、超が付くほどではないが、そこそこのエリート校つまりはお坊ちゃま学校で。その中でも成績は中の上。運動神経もとりたてて良くもなく悪くもなく。見た目も――鬱陶しく見える長めの前髪を上げて、その黒縁眼鏡をはずせばかなり整った部類にはいるのだが――平均といって差し支えない。まだ少年らしさの抜けない体形で少しやせ気味とはいえ、身長も背の順に並べば真ん中より少しだけ後ろになるくらい。
 どこをとっても「普通」「平均」「並」「目立たない」生徒……だった。否、そういう生徒を、演じていた。



――そう、あの時まで。僕は、完璧に演じていたのだった。

       ごく普通の、凡庸きわまりない生徒を。







The last teacher?






「望月、麗華せんせい……ね」

 誰にも聞かれないよう、小さく口の中で呟いてみる。なかなか素敵な名前だよね、きっと美人なんだろうな……退屈な現国の授業を聞き流しながら、今度は頭の中だけで独り言だ。いろいろ楽しい想像めぐらして、思わず微笑みそうになったのを前髪をかきあげる仕草で誤魔化した。

 『今日から新しい家庭教師の先生が来ますからね。』

 朝食後の紅茶を口にしていた時、ああそうそう、と天気の話でもするように何気なく告げられた。瞬間、僕の顔に僅かに浮かんだ笑みの意味を知るのは、国立K大の3年生でとても優秀でいらっしゃるそうよ、よかったわね、お名前は望月麗華先生ですって、こちらもにこにこと笑顔のまま優雅な仕草で茶器を操っている母だけ。

 そうですかわかりました、では遅くならないようにします、と答えた自分。同席しているまだ小学生の妹、紫織(しおり)からみれば、

どこにでもある、光景。
朝の、親子の会話。

「ふふ、今度はどんな風に遊ぼうか……」

 思わず零れた言葉にさすがにぎょっとなって周りを見渡したが、誰もそんな呟きに反応をしていなかった。まあ、聞かれたって大したことはないけど……熱心に黒板を見詰めノートを取る生徒たちを眺め、伊達にここは進学校じゃないことを実感する貴史だった。





   *   *   *





「ひどい!!」

 もう用ナシだなんて…っ!頭がきんきんするような声で叫びながら、ボディーガード兼運転手の牧野に引きずられていったのは――某有名女子大に通ってるという全身ブランド尽くめのウザイ女――とはいえ、昨日までは、僕の家庭教師、だった。

「ねぇ、貴史くんにとって、私って何だったの?まさか、ただの家庭教師、じゃないわよね?!」

 解雇を告げた昨日の、彼女のセリフ。ええそうですね、あなたは家庭教師なんかじゃありませんでした。……だって僕の方が数倍頭はいいですからね、とはさすがに言わない。ただ、その、いかにも遊んでます、という豊満なカラダとテクニックはなかなか魅力的だったけど。でも、もうさすがに飽きたんだよね……だって、あなたは僕にとって……

「ちょっと変わった玩具?」

 にっこりと小首を傾げて笑いながら、僕は真実を吐き出す。

「な…何よそれ!信じらんないっ!」
「そうですか?」
「そうよ……だって……」
「だって?」
「……あんなに……愛し合ったのにっ」
「確かに、先生とセックスしたことは認めます、」

 僕はお互い合意の上での楽しみに過ぎないと思っていたのですが、違ったのですかそうですか、うーんまいったなぁ僕、大事な受験を控えてるんで愛だとか恋だとかそういうの、今は面倒くさいんですよね、そう淀みなく何の感情も込めずに続けた。段々目の前の相手の顔色が白くなっていくのを冷静に観察しながら、目を眇めて最後通牒を突きつける。

「とにかく、もう新しい先生が決まりましたので、」

 明日からはいらして下さらなくて結構です、短い間でしたがありがとうございました、と丁寧なお辞儀つきで送り出した。

 バタンっ、と割れそうなくらいの勢いで閉められたドアに肩を竦めて。ジ・エンド。これまで何度となく繰り返してきたシーン。男なら、徹底的に反抗的態度で日頃の鬱憤晴らしのターゲット。女なら、都合のよいセフレ――それが中学に入学した時から両親から宛がわれてきた家庭教師の、僕なりの定義。

 幼い頃、実母と引き離されてこの家にもらわれてきた僕の、唯一と言ってもいいくらいの、愉しみだった。





   *   *   *





「……そろそろかな。」

 時計は午後7時10分前を指している。夕飯後のひと時、これから楽しいアソビの時間が始まる。

「んーK大かぁ……どんなお嬢様だろう。」

 ああでも、そういえば今朝母は、優秀な人だって言ってたから……S大とかに多いお嬢様タイプというよりは、珍しくガリ勉タイプかもしれないな。そうなると、やっぱりあれこれ未経験だったり?

「いろいろと、僕が開発しちゃったりしてー?」

 手持ちの小道具を思い浮かべつつ…………次々と不埒な期待と妄想が膨らんで思わず頬が緩む。ほんと、この瞬間がたまらない。クリスマスの朝に、新しいおもちゃの包みを開く時と同じくらいワクワクする。もちろん「落としていく」プロセスも楽しい。心理学の本を片手にあれこれ試してみるのもまた一興だし。なにより人心把握術の実地訓練という意味では、日本はもとより海外にも多く支店を持つ宣報堂次期社長としての肥やしになる、というのが両親なりの理屈。

 まあ、それはともかく。欲しい、と言ったモノはほとんど何でも与えられてきた。中でも、人間ほど面白い玩具はない、と思う僕は、

 ……ドコカコワレテル?

「わかっちゃあいるんだけどねー。楽しいから止められないしー。」

 くすくすと笑う顔は、無邪気そのものに見えるだろう。だって僕には罪悪感の欠片さえない。これは楽しいゲームにすぎないのだから。ルールは、僕が決める。ゴールさえも。何が起こるかわからない……「家庭教師VS生徒」の一本勝負だ。

「まず今日のカードは……っと」

 授業そっちのけであれこれ戦略を練った末、とりあえず正攻法――つまり女の子の好む自分の特技を見せ付けて落とす方法――を試すことにした僕は、本棚にずらりと並んだ楽譜の背表紙に目を走らせた。

「麗華先生のお好みはどれかな……女性が好む曲……と言えばショパンだけど……あまりにらしすぎるのも考えものだし。甘すぎず、堅苦しすぎず。それでいて……印象深い……曲……っと。ドビュッシーとか、どうかな。うーん、もっと定番のモーツァルトとかベートーベンのソナタも捨てがたいけど……」

「やっぱり……これ、かな」

 僕が一番、と言うくらいに好きな曲――フランツ・リスト作曲、パガニーニによる大練習曲第3番嬰ト短調『ラ・カンパネラ』――の楽譜を手に、愛用のシュタイングレーバーの前に座り瞳を閉じた。



 深く息を吸い込んで。
 ゆっくり吐き出しながら目を開け、硬質に光る鍵盤に軽く触れる。
 出だしはピアノ――遠くから軽快に響く鐘の音。
 そしてすぐに音が重なり、きらきらと華やかさを増し――遠く近く――大小さまざまの鐘が響く鳴り響く。
 僕は自らが紡ぎだす鐘の音に酔いつつも、注意深くひとつひとつの音の強弱を微妙にコントロールし、今一番聴きたい音を創っていくことに熱中した。

 そして最後はフォルテッシモ――狂気に近い大音声の鐘の音に、魂ごと持っていかれてしまうような……突然の、終焉。
 ビィィーーンと、弦同士が共鳴しあう音が響くほどの静寂が部屋を満たした。

 軽く余韻に浸りつつ、さあ次の曲は、と思いをめぐらせた瞬間、背後に微かな違和感を感じて振り向けば。閉じられたドアを背後に、表情を凍りつかせたまま頼りなげに立ち尽くしている、小柄な女性が、ひとり。

「あ。」

 いつになくすっかり演奏にのめりこんで半分トリップ気味だった僕は、瞬間的にこの状況が飲み込めず思わず呆けた声を上げてしまった。――というか、そもそも。自分で罠を仕掛けていたことも忘れるほど演奏にのめりこんでしまったという、僕としてはありえないような失態をしてしまったことに内心舌打ちした。原因は……明らかに選曲ミス。
 高度な音楽性も技巧も同時に要求されるこの曲は、僕の十八番でもあるものの、同時にのめり込みすぎる事があるのが若干問題だった。そんなことは十分わかっていたはずなのに。

 一体、何やってんだろ。っていうか、気合入りすぎでしょ。

 自分のうっかり具合に悪態をついても後の祭り。、この時すでに僕は。
 彼女の存在に、そして、僕をじっと見つめるその瞳に……完全に心を奪われていたのだから。
 まっすぐに射るような視線。……何の感情も込められてないようなのに、無気力とかそういうのではなくて。何もかもを見通そうとするかのような、強い、強い意志を持ったダークブラウンの瞳。

 きれいだ……。

 互いに無言のままの数秒――まるで時が止まったかのような現実感のなさ。
 見つめ合う彼女の瞳に、吸い込まれそうに魅入られてしまった僕は、ぴくりとも身動きが出来ない。

 この息の詰まるような沈黙を破ったのは、意外にも、彼女の方だった。

「すみませんでした。」
「え?」

 いきなり謝られて面食らった……というより。謝りながら軽く頭を下げたところから、きら、と光る透明な雫が零れたような気がして……思わず不躾にもその目元を食い入るように見詰めた。

「少し早かったのですが……案内の方がドアを開けられて、入室を促されたものですから、」
「……ああ……ええ…」

 若干硬さはあるものの、落ち着いた大人の女性の声が耳に心地いい。
 こんなヒトは初めてだった。まずい、気をつけろ、と心のどこかが警告を発している。

「練習の邪魔をしてしまって、」

 そこまで言われてやっと開口一番の謝罪が、彼女が僕の断りも無しに部屋に入ったばかりか、ピアノの演奏を勝手に聞いてしまった事に対してだったのだと飲み込めた。
 防音をしっかり施した僕の部屋には外部からの音は一切入ってこないから、召使いは特に何も考えずにいつものようにドアを開けたのだろう。そんなこと日常茶飯事だったから気にも留めていなかった。実際、誰も部屋に入れたくないときには鍵を掛けてるし。7時に約束していたのだから、彼女を案内してきた人間にとっては当然の行為だっただろうし。

「そんなことないですよ。どうせもう、あと3分もすれば7時だし、」
「でも……」
「くす。まじめ、なんですね」
「……いけませんか」
「いいえ。そんなことは」
「あの……望月、です。今日から…」
「麗華先生、ですよね。家庭教師の。お話は母から伺ってます。」

 どうぞこちらへ、そう勉強机に促しながら、さりげなくもう一度、少し至近距離から目元に涙の跡がないかと確認してみた。が、わからない。

「目の、錯覚……?」
「え?」

 思わず零れたつぶやきが何のことかわからないらしい先生には、一瞬怪訝な顔をされてしまったけれど。どうにも先ほどの光景がひっかかって仕方がない。とはいえ、こんな初対面で不躾に追究するべきことじゃないし。大体今日は……とりあえず様子見、だよね。

 K大経済学部国際経営学科の中でも、特に厳しいことで有名な相楽教授のゼミで最優秀だと折り紙つきの望月先生。こちらも立ち上がって隣に並んでみれば、身長はほぼ平均並で全体に華奢な感じ。最初に小柄に見えたのは、彼女の顔があまりに小さかったからのようだ。モデルでもなければあり得ないくらい、小さい、顔。
 そして……まったく化粧気の欠片もないような滑らかな褐色の肌に、彫りの深い整った目鼻立ち。僕を一目で捕らえた、形の良いダークブランの瞳を縁取る同じ色の睫は、自然のままでも十分な長さと量があり、きれいなカーブを描いてカールしている。その睫の作り出す陰影のおかげで、ほんの僅かな表情の変化さえ際立って見えるようだ。

 その口から流暢な日本語が零れてくるのが不思議に思えるほど、カンペキに日本人離れした外見だ。

「日本語、お上手なんですね。」

 思わず口をついて出た言葉に、一瞬、吃驚したような少し寂しげなような顔をされて、しまった、と思った。
 けれど、

「……よく、言われます。」

 そう言って。ふわり、と笑った笑顔があまりにきれいで可愛らしくて。
 僕はとても正視し続けられず、不自然にならないように気をつけながら、本棚の参考書を取る動作に紛らわせて視線を逸らせた。














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