ン』
                                ――『ヘテロ』2



「キスしたこともない」「へ?」「俺、万里とキスしたことがない」「何だよ、要、今さら」
 智幾がくすぐったそうな顔をして、ベッドの隣から覗き込んできた。
「キスしたも何もお前女に興味なかったじゃん」「うん」「しかも、それを俺のベッドで言う?」「ごめん」
 むくりと起き上がって、伸ばされた手をそっと押しやった。
「なあ」「うん」「今夜で最後にする」「……俺と付き合うの?」「男に抱かれるの」「おいおい」
 何考えてんだよ、穏やかじゃねえなあ、と苦笑した智幾の顔は意外に真剣だ。
「おかしいと思うんだよね、自分でも」「そういう顔してる」「なんか、万里が欲しいんだ」「……はぁ」
 智幾は一番俺とよく合って、恋人のいないインターバルは智幾と一緒にいることが多い。寝るけれど、恋人かと言われると、俺にとっても智幾にとってもそうじゃないと思う。セフレと言うより親友? しないでベッドで裸でただごろごろしてる時もある。
 溜め息をついた智幾がごろんと仰向きになって、枕元の煙草を取った。振り向いて火をつけてやると苦笑いして、
「じゃあ、そういうのももう止めなくちゃ」「だよね」「欲しいって言った時は本気だもんな」「うん」「一体どうして女になんか」「……かっこよかったから」「は?」「…………かっこよかったんだ」
 智幾は煙草を銜えたままくすくす笑った。
「なるほど、惚れそうな理由だな」「だろ」「でも、女だぞ」「うん」「抱いてくれねえ」「うん」「抱く気か?」「今のところ、それはない」「じゃあどうすんの、『工夫』とかするわけ」「……考え中」
 なぁにが考え中だよ、そんなの最初から不可能だろうが、と笑う智幾に、だよね、と応えながらシャワーを浴びに行った。

「大槻くん、このデータ」「廃棄、ですね」「うん……」
 認めたくないが認めなくちゃならない。教授も難しい顔で資料を睨んで、首を振る。大きな深い溜め息をついて、今日は帰っていいぞ、と言われて、いつもならまだ頑張ります、と跳ね返すところを、そうですか、と頷いたのはやっぱり疲れていたせいだ。
 頑張ったのに。頑張ったのに。頑張ったのに。
 何よりこのデータのためには、いつもより多くの実験体が必要で。いつもより多くの小さな身体が固く動かなくなるのを見なくちゃならなくて。さすがのあたしも、見えないところで傷みが来てる。
「『ラップ』いきますか?」「ん……」「それとも、僕の知ってるところへ御案内しましょうか」「え?」
 ひょいと覗き込んだ相手が気づかうように優しい目をしていて、一瞬ゆらっと泣きそうになったのを、苦笑いして振払った。
「止めとく。明日もあるし。今日は帰って寝る。へたって明日の仕事を失敗したくない」
「わかりました」
 じゃあ、送るだけでも、と申し出てくれたのを断る気力がなくて、ぼんやりと送られる。
 今日も要は遅いんだろうか。またどこかの男と一緒だろうか。
 真正ホモの夫を持った仮面夫婦の妻なんて、こんな時は自分で寒い身体を何とかしなくちゃならないけれど、だからといって女はそれほど身軽になれない。落ちてもいいけど、落ちられない。特に命がどれほど儚いかを知っているなら、自分がそれを左右できる能力があるのを忘れちゃいけない。
「……ここでいいよ、ありがと」「万里さん」「ん? …っん…っ?」
 家の近くで御礼を言って、翻した体をまたくるりと振り向かされて、あっという間に抱き込まれてキスされて、ちょっと驚いてから和んでしまう。嫌いじゃないな、この匂い。微かで柔らかなコロン。要はめったにこういうのはつけないから、こんなに近くに抱かれてたら、何か思われてしまうかな。けど、どうでもいいか、そんなこと。どうせ要には関係ないし。
「……すみません」「……うん」「なんか……頼りなく見えて」「うん…今日ちょっとへたってたからね」「許してくれます?」「ん」「……これからも?」「え…?」
 気恥ずかしくて俯いたのを思わず顔を上げた。きつい目をして見返してくる相手の顔に、はっきり欲しいと書かれていて、同じように飢えた顔をしてたんだろうかと少し悲しくなってしまう。「あのさ……」。
 言いかけた瞬間に、ぱあん、と派手なクラクションが鳴って、驚いて振り返った。いきなりのライトアップ、その向こうには見覚えのある車体。
「あ、じゃ、じゃ、すみません、今夜は」「あ、うん」「おやすみなさいっ」「おやすみぃ……」
 うろたえた顔で慌てて立ち去るのに苦笑。やれやれ、亭主が現れちゃ立つ瀬無しってぐらいの気持ちなわけか。ライトで照らしたまま動かない車にゆっくりと歩みよると、するすると左の窓が開く。覗き込んで、ハンドルにもたれてじっと前方凝視の要を見つけた。
「お帰り」「ただいま」「早かったね」「今の誰?」「ああ、大槻くん」「研究室の?」「うん」「車、置いてくる」「うん」
 頷いて体を引こうとすると、じろりと横目で睨まれる。
「シャワー浴びてよ」「え?」「その匂い、俺嫌いだから」「あ……」
 すぐにそっぽを向いた要に一瞬泣きそうになった。何も言ってくれないんだね。あたしが誰に何されてようと、あんたには関係ないんだよね。
「わかった」「夕飯食べてきたから」「うん」「万里は?」「……済んだ」
 食欲がなくて、昼も何も食べてないけど、もういいかと思ってしまった。掠れた声で気づかれそうかなと思って、そんなのも気にしてくれるわけないかと思って、急いで閉まってくる窓から頭を抜いた。

 柔らかく今にも崩れそうな格好で万里が男に抱かれてた。その身体の線は俺も覚えがある。男に何をされてもいいよと同意する優しい甘い弛み。
 頭の片隅を掠めたのはあの不愉快な香水で、あいつか、と思った瞬間に、ハンドルを思いきり叩きつけてクラクションを鳴らしてた。はっとして振り返った万里の顔が少し白くて光ってて、相手の男は顔なんて見なかった。ただただ苛立たしくて悔しくて、何で万里の腕に居るのが自分じゃないのかと思ったとたん、馬鹿馬鹿しくて切なくて。
 そんなこと、決まってる。俺はホモで、万里はヘテロで。俺は男が好きで、万里も男が好きで。ホモじゃない、男が。俺じゃない、男が。
 女にはバイってないの、そう考えて一層馬鹿馬鹿しくて情けなくなった。女のバイって、そりゃ、男も女もってことでしょう。でもって、男が好きな女なら、ホモの男はどうしようもないもんでしょう。なのに、なんで俺はこんなふうに、万里にどんどん落ちてってるの。
 これって覚えがあるよね、と思い出したのはホモだと自覚したあたりのこと。女を好きになるもんだと思っていたのに、どうにもこうにもやたらと気持ちを魅かれてくのが、男ばかりだとわかってうろたえて怖かった。一体このままどうなるんだろう、俺の人生、どこへ行くんだろうと焦ったけれど、諦めてしまえばそれなりに男同士の方が楽しめることも気楽なことも多いと言う気がして、もう今はそれに違和感さえなくなっていたのに。
 シャワーの音が激しくて、きっと万里はまた泣いている。きっと辛いことがまたあって、それをあいつが慰めてたのに、俺が邪魔したから一層辛くてしんどくなって。
 そう思ったら何だか苦しくて、テレビのスイッチを入れたら裸の女がはしゃぎ回っていてうんざりした。どこがいいんだろうね、これの? なんかめんどくさそうで、うるさそうで、暑苦しそうでややこしそう。
 しばらくじっと眺めていて、それらの女に何も感じないのに気づく。溜め息ついてテレビを消して、まだざあざあ響いているシャワーの音を耳にして、そのシャワーの下で柔らかく弛んでた万里の身体を思い出して、ふいにどきっとしてしまった。きわどいところが熱くなる。
 欲しいな。欲しい。万里が欲しい。それは、一番始めに男が欲しかった時の気持ちそっくりで。
 そっか、と呆気に取られながら思い出した。
 あの時だって、男に抱かれることなんて想像しなかったし、方法だって知らなかった。なのに、どうして今は慣れてしまってるかって言うと。
 ゆっくり立ち上がって、浴室に向かう。ノックして唾を呑み込み、声をかける。
「万里?」「…っ、何……っ」「もう出てきなよ」「……匂い、まだ取れてないと思う」
「いいから」「ん、じゃあ、出るから」「うん」「……そこ、退いてて」「どうして?」
「……どうしてって」「……じゃ、ベッドにいるから」「……要……っ??」
 吹っ飛んだ万里の声を背中にちょっと笑って、さっさと寝室に入った。服はまだ脱がないでいいよね。今日が初めてで、何をどうしたらいいかもわかんないんだし。万里は服着てくるのかな。そのままだと……嬉しいかもしれない。
 何だか妙にどきどきしてきた。

 ベッド? ベッド? ベッド? 何、一体。どういうこと? 
 頭の中は壮絶に疑問符だらけなのに、体は勝手に水気を拭いて、パジャマを着て。そこではたと動きを止める。ベッドって、まさか、そういうことをしようって? え、でも、要はホモなんだし。でも、機能的には可能なのか。けど、気分的には不可能でしょう。ひょっとしたら気持ち的にできるかもって? ……さっきの場面を見てしまったから? でも、それって征服欲とか支配欲とか。でも、要はホモなんだよ? あたしの何にそんな欲なんて感じるの?
 でも。
 いいかも、しれない。今日は自棄にもなってるし、ほんとなら大槻くんに崩れそうになったぐらいだし、どうせ間違うんなら、要と間違った方が社会的にも安全だし、万が一子どもとかできたら。わあ。どうしよう、要の子どもだなんて、想像してなかったな。いや、ほんとはちょっとだけ、少しだけ想像してたことがある。うんと色っぽく迫って要が一瞬だけ男女でもいいやって思ってくれたら、あたしには小さな宝物が手に入るかもって。でも、そんなことはもう絶対不可能な幻で。
 考えに考えてパジャマは着たまま、寝室へ忍び込む。自分の家なのに、そう言えば二人でここにいるなんてひょっとして初めてのことじゃないだろうか。
 薄明かりの中、要がこっぽり布団に入って、ちら、とこちらに目だけ動かして、何だかそれが小動物みたいで可愛くて、切なかった。やだなと思う。やだな。今日、あの子らを失ったばかりなのに、今日また要も失うのは、さすがのあたしも耐えられない。失うぐらいなら、このままの距離で。このまま一生触れないで。ただもう側に居るだけで。ずきんと胃が痛くなる。
「万里」「ん…」「来て」「……ん……」
 よたよたしながら要の甘い声に誘われて、広げられた布団の前で立ち竦んだ。間違ってる。著しく間違ってる。どうしよう。間違ってるのに、あの腕の中に入りたい。けど、間違ってる。間違ってるんだ、これは。
「万里」「ん」「寒いよ?」「ん」「俺、風邪引いちゃう」「……は、ぁ」
 うわ、もうだめだ。こんな風に誘うんだ、要ってば。これで落ちない男がどれだけいるのかな。女のあたしでも温めてやるかと思ってしまうような頼りなさ、可愛さだよね。けど、あたしは抱けない。女だからね。抱けないし。抱けないのに、どうして要は誘うのかな。
 半泣きになって要が広げた布団に潜り込むと、ふわりと布団が降ろされた。お互いに距離を取ったまま、じっと数秒、冷えていた布団がじっくり温まってくるのに溜め息をついたら、それが同時で少し笑う。
「万里」「うん」「何があったの」「……データが」「データ?」「……うん……せっかく集めたのに、設定ミスで」「……だめになったの」「うん……」「そっか……」
 ふぅ、と優しい息が髪にかかって、少し熱が近くなる。緊張するのに、一方でもっと泣きたくなって俯いた。
「頑張ったのに」「うん」「……あの子らも頑張ったのに」「…………うん」「………あたしが……もっとちゃんとしてたら」「……万里のせいじゃないでしょ」「……違う……あたしのせ…だ」
 ぶわ、と涙が溢れて止まらなくなった。要の馬鹿。あたしの馬鹿。念願の、きっと最初で最後のこんな時に、仕事の愚痴なんか言って鼻水垂らして大泣きして、そんなの色っぽいのなんて無関係だ。いつも肝心なところで間違ってばかりいて、いつも大切なものばかり失うんだ。
 悲しくて悲しくてわんわん泣いてたら、いつの間にかすぽりと要の腕の中に居た。正確に言うと、あたしも要にしがみついて抱き締めてたから、抱き合ってくっついていたんだけれど、初めて抱き締めた要の体は凄く温かくて柔らかくて気持ちよくてくらくらして、もっと欲しくてうんときつく力を入れて抱きついた。
「万里」「うんっ」「あのさ、俺」「うん…っ」「淋しいんだよ」「うん…?」「だからさ」「うん」
 ごくん、と要が唾を呑み込むのがわかる。やがて掠れた声で小さくつぶやいた。
「万里」「うん?」「俺に……キス、して」「うん……え、ええっ!」「……だめ?」
 ぎょっとして顔を上げると、要は真面目な表情だった。意図は全然わからないけど、それでも本当にキスして欲しがってるように見えた。そろそろと伸び上がって、迷ったけれど、そっと頬に唇を当てる。親愛の、友情の、友達への、キス。それだけでも心臓が躍るほどどきどきして、まるで子どもみたいに顔が熱くなった。けれど、次の一瞬。
「っ、んんっ??」「んー」「んっんっんっ」「ん……」
 顔を固定されて、ぱくんと食べられるみたいに要が口を覆ってきて、驚いて目を見開いたけれど、相手は気持ち良さそうに目を閉じてどんどんキスを深めてきて、あげくに舌まで入ってきて、一気に息が上がって死にそうになった。じたばたもがいてると、ちゅ、と最後に吸われながら口を離されて、はあはあ喘いで瞬きしながら要を見た。

「か……なめ……」「……ふぅ、気持ちよかった」「…あ、あの……」
 あんたホモでしょ? あたし女だよ? あたし女なのに、キスしちゃって大丈夫だった?  
 真ん丸に目を見開いて万里は研究者の顔で尋ねてくる。こういうところが昔から天然だ
よね、この人は。
 大丈夫だったよ、大丈夫に決まってるじゃん、俺がしたかったんだし、けど、ああ、大丈夫だな、万里は凄く気持ちいいな、もっとしたいな。そうつぶやいて抱き締めようとしたら、逆にぎゅっと抱き締められてびっくりした。要、要、要。小さな声が胸で弾けて、そのままそこもキスしてよって言いたくなってくらくらする。
「万里……万里……ねえ、お願い」
 もう一回キスしてよ、そうねだってどきどきして待ってたら。
「ぐー……」「………おーい」
 可愛いいびきが聞こえて呆気に取られた。揺すっても囁いても起きない相手にちょっとむくれて情けなくなって、それからふんわりと嬉しくなって抱き締める。ほらね、今もこうしてわかる、万里の体が俺にOK出してくれてる優しいライン。きっと俺も同じようなラインして、万里の体に寄り添ってるんだろう。二人で一つの絵を描くように、ベッドの中でくっついている。
 なんだ、全然大丈夫じゃん。とろけるようにそう思う。万里なら俺を抱いてくれそう。方法だって二人で探せばいいことなんだ、そんなことずっと前に知ってたのに。
 閉じていく瞼の裏に万里の呼吸音が淡い波紋で広がるのを俺は満足して見守った。



                        おわり




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