「ええっとぉ……コレを?」
「ええ。復習ですから、一教科30分で十分でしょう。とりあえず今日は現国と数学、それから英語だけ作ってきましたので」
「はぁ」
「3教科続けてやりますか、それとも間に休憩を挟みますか?」
「………どちらでも、」
「では、休憩無しで。このタイマーが鳴ったら、すぐに次の教科に取り掛かってください。」
先生は繊細な指先でキッチンタイマーを素早く操作し、はい、どうぞ始めてください、と有無を言わせないセリフで今日の課題だという復習テストを始めてしまった。
机の上に広げられた手作りのテスト――いまどき珍しく手書きで作られたその用紙は、几帳面な文字で埋まっている。
確か、新しい家庭教師を探して欲しいと頼んだのは先週の初め。決まったと連絡を受けたのは木曜日だから……3教科分の復習テストを3日ほどで作った計算になる。しかも、高1の範囲が満遍なく盛り込まれている様だ。
今、目の前にある国語の問題は100問。この量では、じっくり考えていては到底30分で終わらない。
これじゃあ、すらすらと解ける問題しか答えが書けない……って、あぁ、そうか、狙いはそれか。
完璧に習得している部分とそうでない部分を選り分けるためのテスト、なわけね。ふぅ〜ん、やるじゃない、先生。そんな事を頭の隅で考えながらも、僕の手は休まずにどんどん解答欄を埋めていく。
ピピッピピッピピッ、鋭い電子音で次の教科に移った。今度は数学。こちらも、それは見事に作成されたテスト……って、生徒の僕が言うのもヘンだけど。
ふいに横からサラサラと音がするのが気になって、ちらとそちらを見遣れば……いつの間にか取り出していた赤のボールペンを手にした先生が、終わった現国のテストの丸付けをしている。
――解答も見ず、淀みないスピードで。
どうやら……かなり優秀だという事前の触れこみは本当らしい。
「こちらの参考書は、次回まで持ち帰っても構わないですか? 必要なものがあれば、それは置いていきますが」
「いいえ、特には。次回は、明後日ですし。それにどうせ滅多に使わないものだから……」
「そうですか。では、お預かりします」
そう言って先生は、自分で用意してきたらしい大きな紙袋に、僕が使っている参考書――現国、古典、数学、英語、世界史、地理、化学のすべてを詰め込んだ。
しかも、英数に至っては、1年生用も。
パンパンに膨れた紙袋はいかにも重そうで、本当に持って帰れるのだろうか、と、こちらが不安になるほどだというのに。当の本人はそれを軽々と片手で持ち上げて、何でもないように立ち上がったのに僕は目を見張った。
今まで……こんな重そうな荷物を自分から運ぼうとする娘なんて、僕の回りにはいなかった。もっと軽い荷物さえレディーファーストだかフェミニズムだか知らないけど、男に持たせるのは当たり前、そんな娘ばっかりで……。
こんな華奢なのに案外力持ちなんだ、とか、なんか自立した女性って感じだよね、とか感心していたら、
「それでは時間ですから、今日はこれで失礼します」
そう落ち着いた声が聞こえてきて……ってっ……えええっ!?
それでは、って。
これで失礼します、って?
また来週……じゃなかった、また次回、ってこと? もう今日はおしまいってこと?
でも、まだ……って、いや、まぁ……確かに時計の針は9時を指してるけど。
此方が内心うろたえているのにもまったく気づかない先生は、そのテスト間違った箇所だけ軽く見直しておいてください、そう言い残して。
後ろも振り返らずにあっさりと部屋を出て行ってしまった。
必要事項以外は、一言も話さないまま。
さらさらと丸付けして、大体こんなものだろうな、とか、ひとり納得顔で肯いて。
ああ何だか。……初デートで見事に振られた気分。
「こんなの、絶対あり得ない……」
そう……今までこんなことはあり得なかった。
この僕にまったく興味を示さない人なんて。
媚を売ってこない女性なんて…………………正直、初めてだ。
「なんか、新鮮、かも。(くすくす)」
思えば。まだこの時の僕は、この人の手強さを少しも理解していなかったのだった。
* * *
「はぁ〜」
もう初対面の時から、ずっと。……寝ても覚めても、あの瞳が頭から離れない。
それに、あの褐色の肌。
滑らかで、つやつやしてて……触れるくらい近寄ったら、なんかおいしそうな香りがしそう。
齧りつきたい衝動に駆られるって言うか。触り心地も良さそうだし。
そうそう、それから。……一瞬だけ触れた、ひんやりした指先がもー…ね。
あんまりきれいな手だったから、参考書を受け取るときに、ドサクサに紛れて握ろうとしたけど。
はぁぁぁ。惜しかったって言うか上手く逃げられたって言うかタイミング間違えたっていうか。
ほんのちょっと、指先に掠っただけだったんだよねーって。
あ。
……もしかして、気づかれてたのかな?
ふふ……でも、ホント。
あの手で熱を持った部分、なんか……触れられたら、すっごく気持ちイイだろうなぁ……
でも。でも。やっぱり……
「…………はぁぁぁぁぁ〜」
やっぱり。あれだけ美人で優秀でプライドも高そうな人からしてみれば、4つも年下で高校生の僕なんか、まったく論外で対象外なんだろうな、と思う。いや、こんな弱気になるなんて、全然、僕らしくないけど。
こちらが一生懸命に話題を探して提供しても、ぜんぜん乗ってきてくれないし……唯一、答えが返ってきたのは今巷を賑わしている大手銀行の不良債権問題のことくらいで。
せっかく先生のために取り寄せておいたケーキだって食べずに帰っちゃうし。
そうそう、それに……思い出した。
ふとした瞬間に、すっごい不機嫌そうな顔を、するんだよね。それに……しょっちゅう……ちらっ、と時計見てて時間になったら速攻で帰り支度始めるし。
「あーあ……」
もしかして、僕って嫌われてるのかな……でもまだ嫌われるようなこと、した覚えないんだけど……
できるだけ紳士に振舞ってるし、ちゃんと宿題もやってるし。
もーほんと、なんかこんなのって初めて……っ……っ、い、痛ッ、
「おい、木村!な〜に溜息ばっかり吐いてんだよー」
木村のクセに生意気だ、とかって前の席の市川が振り向きざまに攻撃を仕掛けてきた。っったく、お前はジャイアンか。
内心むっとしつつも、そんな事はおくびにも出さずに笑顔で対応するのが僕流の処世術。
「まぁまぁ、僕のことは気にせずに」
「だけど今朝からずっとだぜ?」
「そう?」
「そうって…自覚ないのかよー。呆けてんのは顔だけにしてくれよ。おかげでこっちは授業に集中できないんだからな!」
「それはどうもご迷惑をおかけしまして。」
こっちこそ、お前の汚い顔なんか見たくないっつーの、という暴言は頭の中だけで留めて、っと。
「あーほらほら前向かないと。北原先生に睨まれてるよ。」
げっ、とか何とか言いつつ慌てて前に向き直った級友の背に隠れるように、背を丸めて片肘をついて、教科書に集中しているフリをする。
アブナイアブナイ。学校では極力目立たなくて大人しいフツーの生徒を演じておかないとね。
――変な期待はもたれたくないんだ。……あの人たちには、さ。
* * *
僕が、あの人たち――つまりは木村の両親に引き取られたのは、7歳の時。小学校に入学してまだ数ヶ月の頃だった。
時々思うんだよねー、どうせ引き取る気だったんだったら、何でもっと早くしてくれなかったんだろうってさ。
中途半場に物心ついてたから、よく覚えてる。
――産みの母との生活を。
今から思えば、きっと貧しかったんだろうけど。そんなことは微塵も感じないほど僕としては満ち足りていた。
母子家庭にお似合いの小さくて生活の匂いがぷんぷんするアパートは、今の、まるでモデルハウスみたいにな家とは大違いで。
どっちがいいかと言われれば、もうすっかりこちらの生活になじんでしまった僕には、あの頃に戻りたい、という気持ちはさらさらないけど。
それでも。
『……ふみくん。』
そういつも僕のことを呼んでた母の声も、顔も。……覚えてる。それほどベタベタとした親子関係じゃなかったけれど。
寂しがり屋の母のことが心配で、木村の家を抜け出して様子を見に行くくらいには大好きだった。
でも――必死で辿り着いた先は――たった1週間しか経っていなかったのにもぬけの殻で。それからは一度も……音沙汰無し。
それはまぁ、いいけどね。きっと「オトナの事情」ってモノがあるんだろうし?
そうそう、そういえば。あの頃の僕は天然で純真で。自分の家が母子家庭だってことさえ、気づいていなかった。
笑っちゃうけど。「お父さん」は――良い父親、だと思っていた。だって、それまでも、ちょくちょく遊びに来ていたし、来る度に僕が欲しがってたおもちゃとかケーキとか、お土産を持って来てくれてたりしてたから。滅多に会えなけど、その分一緒にいるときはとても優しくしてくれたから。ただただ、仕事が忙しいだけなのだと……すっかり信じ込んでいたっけ。
僕の「おかあさん」が、2号とか愛人とか言われる立場だってことを知ったのは、木村の家に引き取られてからという顛末。
もしも……僕とは腹違いになる貴一(たかかず)兄さんが、あんな事故にさえあっていなければ…………一緒に居た、貴一兄さんの生母で先妻の、多美子さんが生きていれば………後妻に入った由利恵さんに、すぐに子供ができていたら………僕は………僕、は?
きっとあのまま、あの生活を続けていたんだろうな。そしたら今頃は、普通に公立の高校に通って。
家庭教師なんか、頼めるはずもないから……予備校、かな。それとも、独学?
そうすると、ゼッタイに麗華先生とはめぐり逢えなかったってわけで…………………って。結局、ソコに辿り着くわけ、だ。
「あ〜あ、馬鹿馬鹿しい。」
今さら、過去のことをあれこれ言ってもしかたがないのに。なんだかこんなに思考回路が暗くなったのは、久しぶり。
それもこれも。
「やっぱり、麗華先生のせいだよねー。」
1ヶ月経ってもつれない態度は崩れないし、ギクシャクしたまま何にも進展なし、ってすごいよ。ホント。
これはそろそろ……僕も本気を出すしか、ない、か。
* * *
「先生、ひとつお願いがあるのですが」
いつもどおり時間きっかりに授業を終わらせて、さっさと帰り支度を始めようとする先生に声を掛けた。
心臓が痛いほど脈打っているのを決して気づかれないように……ことさら丁寧に呼吸を整え、丹田に気を溜める――護身のためにと習わされている武術の心得がこんな時に役立つなんて――ちょっとだけ、あの父親に感謝したい気分。
「改まって、何?」
「今度の中間テスト、全教科パーフェクトでしたら、ぜひ先生からご褒美を頂きたい、と思うのですが」
「ご褒美……?」
訝しげに眉を寄せたその顔、色っぽいなぁ……って。おいおい。こんな時にナニ考えてるんだか。
いやでも、本当に。先生って無意識なんだろうけど、いちいち仕草とか声とか……雰囲気とかが色っぽいんだよね。
服装とか化粧とかで誤魔化して、男に媚を売ってくるような、作り物みたいな色っぽさじゃなくて、さ。
ごくシンプルでカジュアルな服装で、話し方もどこか中性的な感じだったりするのに。
「ええ、そうです。」
真っ黒な腹の内を悟られないように。ここが腕の見せどころ。……出来るだけ、無邪気な高校生を装わなくちゃ。
学校にいるときみたいに。
「キス、して下さいませんか?全教科パーフェクトを取れたら」
ああ、ほら。予想通り、先生固まってるよ。もしかして……ちょっと呆れられちゃったかな?
でも、まぁ。それくらいはこちらの狙い通り。
なにしろ。これまでの僕に対する扱いを見る限り、先生にとっての僕って、完全に子供、なんだよね。
まったく清々しいくらい「男として」相手にされてない。というか、そもそも対等な人間としての扱いも怪しかったりするし。
よく言えば、まるっきりビジネスライクなお付き合い。教師と、生徒。それ以上でも以下でもない関係で。
まぁとにかく。ソウイウ相手に揺さぶりを掛けるには、相当の意外性がなくちゃ。
ダケド大人な麗華先生には、キスくらい、どうってことないんだろうけど。
「やっぱり何か見返りが合ったほうが頑張れるものじゃありませんか、人間なんて」
「…………わかった。ただし、本当にパーフェクトだった場合に限る」
って。ほ〜ら、ね。さらりと言い返されちゃったよ。
先生のその態度は、大人の余裕っていうの? バカな子が仕方ないな、みたいな気持ち?
まあ、何にせよ。僕はあなたが本当に気に入ったから。どうしても、心も体も手に入れたい。っていうか、もう手に入れる、って決めたから。
「じゃあ、私は此れで。」
そう言って、きっちりと綺麗にお辞儀をして踵を返した先生の後姿に、僕は無言の誓いを立てた。
あなたが僕の、最後の家庭教師になるように……これから合格までの一本勝負、気合を入れなおしていきますから。
もう、わざと平均点になるように適当に答えを間違えたりするのはやめにします。
ゼッタイに絶対に。全教科パーフェクト、取りますからね。
「覚悟してて、先生」
ぱたりと閉まったドアに向かって、僕は小さく呟いた。
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……ダーク貴史とペルシャ猫っぽい(は?)麗華さんです。
最後の方、「The first kiss?」と被ってます。
何だか使い回しっぽくてすみません。m(__)m
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