感情の昂ぶりが静まるまで、辛抱強く待ってくれた彼の腕の中、くすん、くすん、と啜り上げていると、なんだか自分が一回りも小さくなってしまったようで、ひどく気恥ずかしい。
「………だいじょうぶ、ですか?」
ごめんなさい、あんまり、突然すぎましたよね……? 今日はもう、ここまでにしましょう? 全体をすっぽりとその身体で覆われ、抱きしめられ、ひどく穏やかにそう告げられた。彼、の声も態度も、まるで仕事中のように冷静だ。…………私があんまりみっともなく泣くから気分を殺がれたのだろう、たぶん。こんな面倒くさい女とこれ以上関わるのはやめておいたほうが良い、と賢明な判断をしたのかもしれない。
(だとすると……次、があるとは、限らない。いいや、きっと……もう……………)
心臓が締め付けられるような痛みと共に、また涙が溢れ出す。そうだ、きっと、今夜しか……。
「ぃやだ。……やめないで」
自分から、彼の足に両足を絡めて、首を横に振った。みっともないことをしている自覚はある。けれど。もう、これが最後なら。
(ちゃんと、抱かれたい)
この前のように、どうせ背を向けられるなら。
「……ほんとに、いいんですか?」
軽く眉間に縦皺を寄せて、心配そうに覗き込まれ、いい、んですね?と、真剣に念を押された。肯く代わりに両腕もしっかり彼の背中に回して、ぎゅっと抱きつく。すると、耳元には何故か、はぁぁぁ……と、彼の盛大な溜息が聞こえて。
「もう、あんまり可愛いことばっかりすると、手加減できなくなりますよ?」
「…………いい」
(めちゃくちゃにして、いいから)
「どうせなら、一生消せない傷をつけるくらい、してくれてもいい」
「それは……どういう意味です?」
「酷くしてくれて構わない、ということ」
「知りませんよ、そんなこと言って後で泣いても。僕、もう今日は、あんまり手加減できそうもない感じだし……あ、でもっ!……だからと言って貴女に傷をつけるようなことはしません……絶対にね。」
「あの、ひとつだけ確認させてくださいますか」
「……確認って……?」
(こういうのはこれっきり、一晩だけ……だと?)
そんなこと、わざわざ確認しなくても……もう私だって三十路も過ぎた大人なんだし、それくらい心得てるつもりなのに。
「いいですか?」
酷く真剣な顔で見詰められて、それだけで少し頬が熱くなった気がした。こういう顔をすると、元来はかなり整った作りのその顔には、人の上に立つのを運命づけられた人に共通するある種の威圧感が伴って……私の眼を奪う。
(こんな顔、滅多に拝めるものではないから……しっかり覚えておこう)
じっとその顔を瞳に焼き付けながら、私は次の言葉を待った。
「もう……これからは。何かあったら、必ず僕に話してくださいね。」
(……これ、から?)
「僕だってもう子供じゃないんです。母や叔父のような、財産や地位を目当てに寄って来る魑魅魍魎どもから、あなたを守れるくらいの力はありますからね? だから、僕たち二人に関することは、ぜーーーーったいに、勝手に判断したらだめです」
どんな些細なことでも、ちゃんと僕に相談してください?わかりました?そう真剣に言い聞かせられて、何だか自分が小さい子供になったような気がする……。というか。自分の予想とはまるっきり正反対の事を言われて、イマイチ意味がすとんと入ってこない。
「なんだか、妙な気分」
「……えっと……何か変ですか、僕の言ったこと」
「言っても怒らない?」
「まさか」
「なぜだか…………関白宣言、されている気がする。」
「関白、宣言ですか?」
はぁ。確かに、そうかも知れませんね、そう言ってにっこりと笑われ。でも僕、女王様と下僕って言うのも、けっこう気に入ってたんですけど、と、しらっと言われて驚いた。
「知ってた、んだ?」
「まあ。これでもけっこう耳聡い方なので」
それにしても、せっかく温まってたのに……また冷えちゃいましたね……私の指先に唇を寄せたまま、ふっと悪戯げに笑われ。
「もう一度、暖めてさしあげますから」
その眼差しに込められた熱に、収まりかかっていた此方の熱も上昇し始め、体の中心が甘く疼きだした。
――その冷たい指先に、キスを落とすのは始まりの合図。
二人だけの甘い時間の、始まりの。
二人だけにわかる、秘密の言葉。
もう一度、ゆっくりとしたキスから始めて。私の全てを委ねるから、すっかり全部あなたの腕で奪って欲しい。そうすれば。3度目の正直の、この恋も……ようやく春の気配に包まれるだろう。
「東京には、一緒に帰りましょうね?」
重たい瞼をうっすらと開けると、柔らかな笑顔が飛び込んできた。なんだか、ひどく恥ずかしくて。なんだかとても幸せすぎて。言われた言葉の意味さえ、深く考えないまま肯いた。長い冬は明けたんだ。指の先まで凍えることは……もうない。きっと……ない。
(終)