Ma petite douceur
                〜あるいは、想定外の日常〜




                        第4話





「ごめんね、怒ってる?」

 そう遠慮がちに聞かれても返答に困る、なぁ……。

 私がバイトを上がる時間まで店で飲んでいた仲間たちが三々五々散っていく中、いつものように自転車で帰ろうとしたところを、やんわりと、けれど意外なほどの強引さで引き止め、いわゆるツーリングワゴンというタイプの車の、後部座席のシートを倒した広いトランクルームに自転車をさっさと載せてしまい……現在、アパートまで送ってくれているのは。

 本日が初対面の畑森さんだったりする。

「いえ……」

 別に、怒ってはいないので曖昧に答えた。怒ってはいないけど……畑森さんに、アパートまで送ると言われ、なぜかそれを正臣さんたちにまで後押しされ……

「でも、本当に全然遠くないですし……」
「そうかもしれないけど、でもホント、女の子がこんな夜中に一人で自転車なんか乗ってたら危ないよ?」

 最近、この辺も物騒らしいからね。独り言のように呟きながらハンドルを握る横顔は、正面から見た印象よりも精悍で――少し自分の鼓動が早くなったような気がする。気のせいかもしれないけど。

 丁寧な運転も、静かな会話も。ああ、大人なんだなぁ、としみじみ思って。一瞬、脳裏にちらついたのは……とりあえず勢い(?)で『彼氏』ということになっている、柔道部キャプテン・川村義の顔だった。別に送ってもらうくらい、どうってことないのに。

 まあ、そんな感じで少しだけ複雑な心境にかられつつも、もともと自転車でも10分もかからない道のり。車では文字通りあっという間すぎるくらい呆気なく到着してしまった。

 せっかく送ってもらったのに、あまりに短時間で着いてしまったことで、何だか逆に恐縮してしまう。

「ホント、あっという間だったね」
「そうですね」

 んー、ここはお茶ぐらい、出した方がいいのかな?そう一瞬、思考がそれた時には、畑森さんのほうが先に車を降りてしまっており。

「あ、自転車は自分で出せますから、大丈夫ですっ!!」

 そう宣言しながら慌てて車外に出た私は、足早に車の後ろに回った。





――つもり、だった。





「ちょ、っ、と、真澄ちゃんっ、っ!! どうしたの?!だいじょうぶ?どこか痛いの……?! 」

 身体を軽く揺する感覚と、聞きなれない男性の声に、ふい、と意識が覚醒すれば――視界に入ったのは、明るい街頭の光で逆光になっていて顔の表情さえわからない男性のシルエットと、夜中でもうっすらと明るい都会の夜空で。

(あーあ。また、やっちゃったんだ、私)

 最初に思ったのは、それ。そして、心配げに見守ってくれている人が誰だったか、やっと思い出した頃にはすっかり頭は正常に働いていた。

「すみません、おどろかせて」

 いつものことなんで、大丈夫です、そう言いながら普通に起き上がって、身体の埃を払って。トランクから自転車を降ろそうと思ったら、すでにそれは路上に停められていた。

(あらら。)

 一体今回はどれくらいの間“落ちて”いたんだろう……とりあえず、自転車をトランクから出して停められるくらいの時間はあったってわけだ。これまで他の人が居る前では、大抵の場合、落ちるのは数秒間だけだったから、それとは気づかれないことさえ多かったのに……なんで、今日に限って……。やっぱりちょっとスケジュール的にハードすぎたのかな、と軽く反省する。

 こんな風に一瞬気を失う、というのは、一人暮らしを始めてから時々あることだった。心配になって医者に掛かってみたけど、CTやら血液やら色々と調べた挙句、

『特に問題はありませんね。きっと過労でしょう』

 という、なんともあっさりとした診察結果しか出なくて。薬もくれなければ注意事項を言われたわけでもなく。過労だと言われても、自分の生活を変えるつもりは無かった。

 実は、友人の借金の保証人になっていた父が、その友人に逃げられ多額の借金を背負ったのが高校3年だった我が家。当然、仕送りは期待できず、朝までのバイトに居酒屋を選んだのは賄いを期待してのこと。アパートでの食事は基本的に食パン、牛乳、バナナが定番。その上クラブは掛け持ち。せっかく特待生を射止めた大学は辞めたくなかったから、授業だって手が抜けない。……一人暮らしゆえの家事雑事をこなし……うわぁ、自分で言っててめまいがしそうだよ。まあ、そんなこんなでギリギリの生活。だけど、それを変える、というのは、何か……自分や境遇に負けてしまうことのような気がして嫌だった。

 だから、このことについては極力気にしないようにしていた、というか。どうせ気をつけようにも、気を失う瞬間は予測がつかないから「仕方がない」と腹を括っていたのだけど。

『誰か知らない人ばっかりの前で倒れちゃったらどうするのよ!』

 そういって奈津子には怒られたけど。まさか、初対面の男性の前でひっくり返るという失態に繋がるとは思ってもみなかった。



「はぁぁぁ……びっくりしたよ……本当に」

(そりゃあ、そうでしょうねぇ。私もだよ……)

「どうしたの? ねぇ、本当に大丈夫? お医者さん、今から行こうか?」
「いえ、医者からも別に病気じゃないって言われてますから」

 大丈夫です、と繰り返す私に、

「でも……そのお医者さん、信頼できるのかな?僕の知り合いに、脳外科の先生がいるから紹介しようか?」

 そう言いながら覗き込んでくる瞳があまりに真摯だったから。

「いえいえ、大丈夫ですよ、そんなに心配しなくても。もしお時間があるなら、コーヒーでも一杯いかがですか?」

 警戒心なんて、すっかりはるか彼方に飛んでいた私の口は、いつの間にか、そんな言葉を吐いていた。










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