1.Traveling(1)
「あーあ、やっぱり、タレントは特別扱いなんだなぁ。俳優さんと監督さまはビジネスで、スタッフはエコノミーかぁ……」
映画の撮影のため、某国首都へ向かう飛行機の中、微妙に窮屈なエコノミーの座席が苦手な私は、ため息とともに愚痴を吐き出した。しかも周りは、同じスタッフだと言っても、まるで初対面の人ばっかりだし。……まぁ、隣が女の人だってことだけは救いだけど。
「でもさ。普通、通訳はビジネスでしょー?」
そりゃーね。私みたいな経験3年程度の駆け出し通訳なんて、スタッフと同じでも仕方ないのかな、とは思うよ?
「でもまぁ…最近は、エンタメ系も不況だもんねー」
滞在費も航空券も通訳料金に含まれているんだし。映画を外国ロケで撮影するともなれば同行するスタッフの数もけっこう多いし。少しでも経費削減の努力をするのは当然仕方ないことなんだってわかってる。わかってはいるけど……自分で自分を納得させるべく、つらつらと考えてみた。けれど、
「はぁ…」
それでも今から10時間以上もこの狭い座席に縛り付けられるのは、やっぱり辛い。他のスタッフと違って、通訳の私は空港に着いた途端に仕事が始まるんだってこと、わかってもらいたいのよね。――と、小さなデスクに収まりきらない分厚い関係資料にぼーっと目を落とし、かなり愚痴っぽい思考に陥っていた私の耳に突然、
「通訳さーんっ!」
前の方から、大きな声が飛び込んできた。
「?……なんか聞き覚えのある声のような」
声のした方を見たけれど……機体の一番後方に座っている私から、その場所はよく見えない。
(でも。通訳って……呼んだよね?それってもしかして私のこと……かな?)
国際線だからって、通訳という職業の人間がそうそう乗っているはずはないし。しかも、この飛行機に乗っている人間のほとんどが今回のスタッフなのだから。なおさら自分が呼ばれている可能性は大、だ。仕事はあちらに着いてから、と勝手に思ってたけど、機内で要請がないとは限らないのだ。何かトラブルだったらどうしよう……少し不安になりつつ、荷物を上げている人でよく見えない前方を凝視すれば、若い男性がこちらに向かって手を振っている……ようだ。
「ちょっと、通訳さーん。こっち来てもらえます? えっと、鏡野さん、だっけ?そうそう、鏡野さんっ! 鏡野つ・き・こさーーん!!」
(やっぱり、私?!)
思わぬところで注目を集めたせいで、かっと温度を上げた頬を隠すように俯き、手にしていた資料を座席に叩きつけるように置いた私は、そのままの体勢で、周りの視線を避けるように声の主へ向かった。
(そんなに何度も大声で名前を連呼しなくっても聞こえてますからっ。)
つかつかという足音に若干の照れ隠しと怒りを込めながら近づいた私は、ビジネスとエコノミーの境目に立っていたその若い男に、いきなりぐいっと手首をつかまれた。驚きのあまり声も出せないでいると、彼はそのまま、ビジネスクラスのキャビン目掛けて歩き出す。
「あの、どうかしたんですか?」
半ば引きずられるように歩きながら、不意の出来事にどきどきとうるさく騒いでいる心臓を何とかなだめて、少し小声で前を歩く後姿に声をかけてみた。けれど……返事は、なし。無視?それとも声が小さすぎた?
(そんなにきつく掴まなくたって…子供じゃないんだから、ちゃんと一人で歩けますけど?!)
つづけて言おうとした悪態は……すんでのところで止まってしまった。なぜかって?……それは、現在、私の前方30センチくらいのところを(しかも私の手釘を掴んだまま)歩くのは、この映画の主演男優・光村優司だったのだ。
若手注目俳優ナンバーワンといわれている彼。端整で基本的には甘いマスクだが、表情によって男臭さも感じられるところがあり、それが彼の役柄の幅を広げている。また、趣味だという武術で鍛え上げられた肉体と、女性的な容貌とのギャップも全国の女性ファンの心を捉えて離さない。
はっと気がつくと、ぼおっとその後姿に見惚れてしまって……いた。まずい。
そもそも、今回のような精神的にも体力的にもきつい長期の同行など私のレベルではまだ少し不安が否めない。それでも、つい請けてしまったのは、偏に光村優司が関わっている映画だからだ。そうでなければ、こんな仕事はお断りしていたのは間違いない。まぁ、ファンだってバレたら、すぐに首にされそうなので(いや本当は影響は無いのかも知れないけれど)、名刺交換からこれまでずっとそのことは隠してきている。だけど、ずっと彼の近くにいられるというだけで。……ファンとしては、ちょっとした優越感。なのだ。
でも同時に。
彼は――私にとってはある過去と繋がってる存在でもあって。
傍にいるだけで、僅かに体が強張る。
(彼の方は、私のことなんかぜーんぜん覚えてないようだけど)
ほっとしたような。ちょっと寂しいような気持ちで、半ば夢見心地で引きずられてきた私を前方の彼がくるり、と振り返った。
「はい、通訳さん。ここ、座って?」
言いながら見つめてくる少し切れ長の二重は、吸い込まれそうな黒だ。ぐいっと肩を押され、ほとんど押し込められるように座らされたシートは、エコノミーとは格の違う、ゆったりしたもの。
「ぇえ?」
(なになになになに!?まさかこれから通訳?打合せ?)
ひとり軽いパニックに陥っている私に気づきもしない様子で、青木さーん、いいでしょ?もう連れてきちゃった、と可愛らしい笑顔で優司が話しかけている相手、青木さんは今回の映画のプロデューサー兼コーディネーターだった。つまり、今回のお金の総元締めだ。
「仕方ないなぁー。まあ、どうせ席も余ってるしぃ。ギャラから引いといて、なぁんて光村くんに言われちゃ、ダメともいえないよぉ」
「だってさ、通訳って、あっちついたら即仕事、でしょ?飛行機で疲れちゃったら、使い物にならないじゃない。この人、経験浅いみたいだし」
当の本人は無視したまま進む会話。え?どういうこと?と驚いていると。――すとん、と隣の席に優司が座った。
「長時間のフライトなんだから、こっちの方がいいよね?」
にっこりと満面の笑み。何だか、子犬がパタパタ尻尾を振っているところを重ねて想像してしまった。でも……「経験浅いみたいだし」だなんて。
(それって私に対する嫌味ですか?)
どうせ私は頼りなさそうですよー。と、ちょっとむっとしてしまう。そんなこと、他人に言われるまでもない。だって自覚はあるんだ、これでも。そもそも、バリバリ帰国子女だったり英米の大学や大学院を卒業したりした、いかにも「英語デキマス」みたいなおねーさま方とは、通訳学校でも一線を画した存在だった私。
まぁ、見かけと技術は別物だけどね。それでも、
(微妙に落ち込むなぁ……)
ちらり、と横を見れば、アイマスクをしてヘッドフォンをした端正な横顔。明るく爽やかで、誰にでもフランクで親切……っていうブラウン管の中の光村優司、とはちょっと異質のオーラを放っている。
(ちょっと頼りできるかな、とか、密かに期待してたんだけど)
自分に厳しい、と評判だし……これは案外、他人にも厳しいタイプかもね。いやいや、仕事なんだから。きびしくて当たり前だってことだ。ここはしっかりと気を引き締めなくちゃ。
――これから約2ヶ月間……一体どうなるんだろう。
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